金勝寺の歴史

  • 金勝寺略縁起

金勝寺略縁起

当山は竜田川に迫る薬師山の麗にあり、付近は峡谷となり、数十年前まではきわめて景勝の地でありました。当地には竜田川に住む龍神を祀る信仰が古くからありました。
寺伝によれば行基菩薩が春日神祠参籠のおり、夢枕に白髪の老人が現れ「これより西にあたりて霊地あり。建立し衆生救うべし。」とのお告げにより、天平18年(746年)、聖武天皇の勅命を賜り、境内四丁四方、寺領七百石、金堂、大講堂、阿弥陀堂、護摩堂、三重塔、食堂、その他塔頭坊舎三十六ヶ坊等の一大伽藍が建立されたと伝わっております。
鎌倉時代は皇室領となり、後白河法皇の荘園となった時期もありました。
その後、当山から目と鼻の先の距離にある信貴山城に永禄二年(1559年)に入城し、大和をほぼ制圧した松永弾正久秀の焼き討ちに遭い、天正年間にことごとくの建造物を焼失し、その上寺領までもが没収されました。
筒井順慶、石田三成に仕えた戦国武将島左近一族の支援や信仰厚い村の人々の協力もあり、本堂、阿弥陀堂、坊舎六ヶ坊等を復興しましたが、文政年間に五ヶ坊が廃絶し、現在は真言院「桜の坊」のみが残っております。
現在の本堂は寛文五年(1666年) の再興で、焼き討ちの焼け跡から、使える木材を再利用し、柱を上下逆に使用したり、規模を二分の一に縮小したりと、当時の復興の苦労の跡がしばれます。
その後再び明治十六年の火災により、護摩堂、宝蔵庫、庫裏を全焼しましたが、明治三十五年に護摩堂、解体移転、無量寿殿(阿弥陀堂)、南門、東門、檀信徒研修道場等を新築し、現在に至っております。約1200年前、創建当初は法相宗でありましたが、現在は真言宗室生寺派の法灯をお守りしております。