墓地

十三重層塔

墓地の中心に建つ層塔は、高さが440センチ、基礎は低く、塔身の四方仏は金剛界四仏で、大きく月輪内に薬研彫で梵字で表す。各層の屋根裏には一重の垂木型を作り、軒反りは力つよく反る。相輪はないが鎌倉時代の石塔である。

十三佛石塔

南北朝時代~鎌倉時代にかけて全国的に広まった民間信仰。死者の追善供養のため(ときには逆修供養のため)、初七日不動・二七日釈迦如来・三七日文殊・四七日普賢・五七日地蔵・六七日弥勒・七七日薬師・百ヵ日観音・一年勢至・三年阿弥陀・七年阿閦・十三年大日・三十三年虚空蔵である。 この十三仏は高さ173センチ船型を作り、天蓋の下面に13尊の像を浮彫りする。像の横に尊名を刻み分かりやすい。室町時代後期、天文22年(1553)3月15日の銘や新三郎逆修の銘文から逆修供養として造立されたことがわかる。
【 金勝寺墓地の十三仏説明図 】 忌日供養の仏像十三体を三列四段に配置。右下の不動明王から左に進み、ジグザグに上に進む。 最後が三十三回忌の虚空蔵菩薩である。 (1) 不動明王
(2) 釈迦如来
(3) 文殊菩薩
(4) 普賢菩薩
(5) 地蔵菩薩
(6) 弥勒菩薩
(7) 薬師如来
(8) 観音菩薩
(9) 勢至菩薩
(10) 阿弥陀如来
(11) 阿閦如来
(12) 大日如来
(13) 虚空蔵菩薩

六地蔵

地蔵菩薩は、六道の世界(地獄・餓鬼・畜生・阿修羅・人界・天界)の衆生の救済と教化につとめる仏。江戸時代延宝6年(1679)頃に造立されている。これから六道に旅立つ死者を守るため、死者の世界と現世との境である墓地に立っている。

境内

磨崖石仏群

自然の断崖や露出した岩面に仏像を彫り出したものを磨崖仏というが、本堂の南に高さ9メートル、幅6メートルの花崗岩に磨崖石仏群がある。

茶々逆修の石仏

岩壁に刻まれた不動明王像は、自然の風化や苔などで姿が分かりにくいが右手に剣、左手に羂索縄(けんさくなわ)を持って岩座に立つ。右下方に「僧快慶」の銘がある。鎌倉時代、二度にわたる元寇を迎えた鎌倉幕府の命により全国各地の寺社で『敵国調伏』を願って不動像の造立が盛んに行われた。この不動明王像もそのひとつで、当時この磨崖仏の前に護摩壇が組まれ祈祷が行われた。

  • 拓本 不動明王図


茶々逆修の石仏

不動磨崖仏の下方に船形に彫り込んで像高70cmの矢田寺型地蔵が彫られている。像の脇に「茶々逆修」「天正十四年丙戌卯月二十四日(1586年)」の刻銘がある。興福寺の『多門院日記』によると戦国時代に平群谷を支配した驍将 嶋左近の妻「ちゃちゃ」の逆修供養の仏として造立されたものという。 逆修とは生前にあらかじめ自分のために仏事を修して死後の冥福を祈ることをいう。

茶々逆修の石仏

宝筐印塔は一切の災難から助かることを願い、塔身部に宝筐印陀羅尼経という経典を納めたことからこの名がある。高さ88cm。相輪部に別の宝珠を載せる。

茶々逆修の石仏

方形の彫り込みの中に像高56cmの薬師像を浮き彫りしている。彫り込みの上にある横穴の柄穴(ほぞあな)には当初は笠石のような雨よけがあったと思われる。

左下方の磨崖仏群

右上部の石仏に続いて室町時代から江戸時代にかけて追刻された石仏群。 中央に見える矢田寺型地蔵には「康正二年丙子六月日(1456年)」の造立年号がある。

五輪塔

五輪塔は日本固有のもので、鎌倉時代に入ると普遍的に造立される。密教の五大思想(世界は空風火水地から成り立つとの考え)をうえから宝珠・半円・三角・円・方形に表したもの。鎌倉後期。

十三重石塔

層塔は三重以上の層が多い物で十三重塔まで奇数を持って造立される。仏塔は釈迦如来の舎利を納める為に造られた塔である。下から基礎・塔身(初重軸部)・屋根・相輪で構成される。この塔は高さ3メートル、塔身の四方に月輪を刻み、金剛界四仏の種子を薬研彫する。最上部の相輪が欠損している。鎌倉後期。

一石五輪塔

五輪塔は室町時代以降、一般的に小型化し、造形美も退化して高さも小さくなり一石で五輪等が作られる。念仏信仰が庶民に広く普及するにつれ、製作された。高さ70センチ、幅22センチ、室町時代。

五輪板碑

板石を用いて塔婆を立てることが鎌倉時代から広く行われる。板状式五輪卒塔婆に作り、各輪部の梵字が刻まれている。

※ 資料協力 平群史蹟を守る会